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エトセトラ

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振り返れば一瞬の出来事のように思える数々の思い出

船旅 南半球一周  (17) イースター島の巨像


☆叔母の死。遥か日本へ向け合掌

妻の誕生日の翌130日朝、男は、船室のドアの下から差し込まれた1枚のFAX用紙を見つけた。差出人は、イグアスの滝を推奨した5歳年上の従弟である。文面は85歳になる母方の叔母が127日に他界したという訃報だった。夫婦が「インカ帝国」の首都クスコに滞在していたときだ。叔母は9人兄弟の末っ子で6女。男の母親は3女で、年齢は11歳離れていた。姉妹は仲が良く、叔母は8年前、母親の臨終にも立ち会ってくれた。「早すぎる」と、夫婦は茫然とした。叔母が配偶者と死別したのは半年前、急ぎ夫の後を追ったような旅立ちである。

2人は南太平洋上にいる。葬儀に駆け付けることは出来ない。船旅は身動きができないのが難点だ。取りあえず、従弟に返信しなくてはならない。出航前の懇談会で乗船経験のある年配女性が「海外から日本への通話は高いので、電話番号で70文字まで送信できるSMSを利用して連絡を取った」という話を聞いていた。早速、哀悼の意を伝えて欲しい旨をSMSで打電した。ところが、通信可能範囲から外れているのか、通信不能と表示が出る。正確な理由はわからない。SMSを諦めて最後の手段、FAX送信に委ねた。いつ差出人の手元に届くか不明だが、致し方ない。

夫婦はデッキに出て遥か北にある日本に向かって合掌し、深く頭を下げた。哀悼の意を表現するといっても、それが精一杯だった。「地球一周の船旅」には「不義理」を覚悟して乗り込まなくてはならない。

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☆イースター島へは漁船に分乗で

本船は246時、イースター島の沖合に投錨した。ペルー・カヤオを出て6日目、航海距離は2km。毎日、青い空と海を見てきた眼に島の緑が優しく柔らかく映った。停泊は1泊の予定だった。船客は、さぁ、上陸だと意気込んだ。しかし急きょ停泊は2泊に変更された。

島には客船が接岸できる埠頭はない。上陸場所は4か所あるが、いずれも客船の救命艇は底が深くて使えない。漁船を通船としてチャーターして1810人ずつ、ピストン輸送する。用意されたのは8隻。ドリーム号の乗客は830人。1日でさばくには無理がある。

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客は、まず初日と2日目に分けられ、さらに各日午前と午後組に分けられた。夫婦は2日目午前のグループに入った。参加者は174人。リストバンドが事前に配られた。「ラパヌイ国立公園」入場料8千円を支払った証明書になる。いまにも破れそうな紙製で頼りない。「失くすと帰船出来ません」と脅され、夫婦は、観光中、ヒヤヒヤした。

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「ラパヌイ」とは、1762年に来島したオランダ総督が命名した「イースター島」のこと。意味は「広い大地」だが、小豆島より少し小さい。人口は約3700人。       

舷側に取り付けられたタラップから乗り込んだ通船で10分、「アナケナ」ビーチに上陸した。事前に「不備」と広報されたのはトイレ。上陸地点には木造平屋の公共トイレがあった。しかし 女子用は何故か、鍵がかかっていた。女性陣は男子用に殺到した。この問題が一段落すると、さっそくモアイ像の見学である。

17世紀、モアイ戦争で像は倒壊

5日前の洋上講演で、ゲストのラパヌイ人の男性は「像が立つ祭壇には部族の長の骨が納められている。像は部族の守り神。『モ』は『未来』、『アイ』は『生存』、『モアイ』は『未来に生きる』という意味です」と説明した。

一説では12世紀から16世紀末まで造られ、最盛期は14世紀、人口は15千人を数えたという。ところが17世紀、食料不足などから部族間の「モアイ倒し戦争」が約百年続いた。この間にモアイ像は破壊され、以後、顧みられることはなくなった。像が往時のように起立したのは、チリや欧米の復元作業が始まった太平洋戦争後の1950年からという。上陸した「アナケナ」の砂浜にはあちこちに合わせて7体が直立していた。現地ガイド、長身の20歳の青年は「1体の高さは3m、重量18トン、これらは初期の製造で、砂に埋没していた像を掘り出して1978年に復元したものです」と言う。

島内に像は千体あるといわれるが、起立しているのは少なく40体程度らしい。夫婦は貴重な現物を目の前にしていた。もし、7体が一か所に整列していれば、強い印象を受けただろう。

☆歓声が沸いた巨像群

モアイ像の製造場所「ラノ・ララク山」の麓には、胸まで埋もれた像や、凝灰石の塊の中に横たわっている造りかけの像など、像がゴロゴロしていた。最大のものは重さ600トンという。見晴らしのきく高台に着くと、青年ガイドが誇らしげに「あれがアフ・トンガリキ」と海を指差した。「アフ」は祭壇、「トンガリキ」は「王の海」という意味だそうだ。

見下ろすと、白波を立てる海岸線に背を向けた像15体が整然と立ち並んでいる。ラパヌイ観光地のハイライトである。像の足下を歩く観光客が、まるで蟻のように見える。現地に着くとマイクロバスの仲間15人が一様に歓声を上げた。

この巨像群、真っ青な空と群青の海を背景に、長さ100mのアフの上に整列する背丈5mを超えるモアイの群像である。見上げると、いずれも、何かを訴えているかのような個性溢れる表情。迫力は圧倒的であった。

☆修復に日本のクレーン会社が協力

「チリ共和国政府 日本・モアイ修復委員会」名の掲示板があった。日本語表示もある。この世界一流の観光資源が19605月のチリ地震で発生した津波で像と祭壇が流され、30余年、倒壊したまま放置されていたという。夫婦は知らなかった。

青年ガイドによると、香川県高松市に本社を置くクレーンメーカー「タダノ」が全費用18千万円を負担し、委員会の調整を行い、クレーンを寄付し、玉掛など作業技術も島民に教えた。15体の復元が完成したのは1996年。日本語表示は、アフ・トンガリキを蘇生させた無償の行為への感謝の現れのひとつだ。

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1988年秋に放送されたTBS「日立 世界ふしぎ発見」は、ラパヌイを特集し「クレーンがあれば元通りに出来るのに」という現地の声を紹介、回答者の黒柳徹子が「日本企業が助けてあげれば」と発言、これを「タダノ」の社員が耳にとめて会社に提案し、社長が取り組みを決断したという。

☆妻はシュノケールで九死に一生

上陸地点に戻った。ここでガイドとお別れである。出会ったときに男が父親の年齢を聞くと「69歳」という。男と同年齢ではないか。それを伝えると彼は観光中、男を「パパ」と呼んだ。

沖に本船が見える。船の門限まで間があった。妻は「シュノーケルをしたい」と言い出した。上陸前に「泳ぎたい方は出発前に水着を着用して」という船内放送はあった。妻は、この助言に従って服の下に水着を着ていた。止めても聞かない妻である。

男は一足先に単独で通船に乗った。1時間後、船室に戻って来た妻は、九死に一生を得たと言う。「筒先から海水が入り、呼吸は出来ない。海底に足は届かない。助けを呼ぼうにも声が出ない」という状況を、何とか自力で脱した。男が砂浜に居ても気づかず、救助できなかったことは間違いない。出航前にからかわれた「離婚」どころか「死別」の瀬戸際だった。

☆外国人渡来で言語も伝承も消滅

本船は2518時、島を離れた。右舷に途中で立ち寄ったオロンゴ岬が夕陽の中に浮かんでいる。男はガイドの話を思い出した。「モアイ倒し戦争」後の18世紀、毎年、島の王(鳥人)を選び出す「鳥人儀礼」が行われた。部族の選手たちが岬から海まで断崖を駆け下り、泳いで沖の島へ。島から海鳥の卵をとり、真っ先に岬に戻った部族の長が1年間、王となる。戦いを避けるための知恵だ。

しかし、19世紀、歴史は暗転する。外国人による奴隷狩り、軍艦を伴った宣教師による島の象形文字抹殺、持ち込まれた疫病による人口激減などで言語も伝承も消滅してしまった。

岬は闇に包まれながら後方に去っていった。(次回は「一路、横浜へ」)



by hirookuyam | 2018-08-11 16:23 | 地球一周

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